先生のご指導から

【1】


戸田先生は、厳然と言われた。

「恩知らずの、傲慢な幹部がいたならば、厳しく、遠慮なく叱りなさい。どんどん、自分の真実の思いを言い切っていきなさい」

 下から上へ、厳しく叫べ! それが、牧口先生、戸田先生の鉄則である。沈黙してはいけない。臆病であってはいけない。

次は、君たち青年の番だ。青年部に、一切を託したい。

 役職が上だから偉いのではない。信心で決まる。行動で決まる。青年が、下から上を動かしていくのだ。

 (2008・1・29 各部合同協議会)




【2】


たとえ相手がどんな役職や立場であろうと、その行為が間違っていれば、「何をやっているんだ!」「先生の指導と違うではないか!」と、はっきりと言いきっていくべきである。私たちは「言葉」で戦うのである。明快に言い切っていくことが、現実を変えていく力なのである。

(名言100選)




【3】

平和憲法

戦争放棄をうたう日本国憲法に掲げられた

平和の理念と精神を、

全世界に広げることが日本の使命である。

戦争を放棄するためには、不信を信頼に、

憎悪を友情に変え、

戦争など起こさない友好関係を、

すべての国々と築いていく以外にない。




【4】

国家主義は宗教

国家主義というのは、一種の宗教である。

誤れる宗教である。

国のために人間がいるのではない。

人間のために、人間が国をつくったのだ。

これを逆さまにした”転倒の宗教”

が国家信仰である。



【5】

正義といい、人権といっても、人が人を犠牲にしないことである。他人の不幸の上に自己の幸福を築かない、ということだ。

正義など、どうでもいいというのは気楽かもしれないが、その代わり、人生の本当の深さも、喜びも、充実も、向上も、価値も、幸福も、何ひとつ味わえない。ただ欲望に流されていくだけのつまらない人生である。

正義感を決して失ってはならない。世間ではよく「清濁併せ呑む」ということが度量のようにいわれるが、不正、不純を容認し、それに慣れてしまえば、自分自身が濁っていく。そうなってしまえば、本末転倒である。

悪と戦わずして、正義はない。悪と戦わずに見て見ぬ振りをしていれば、自身が悪に通じてしまう。ゆえに、正義は断じて強くあらねばならない。正義とは勇気である。



【6】


勇気ある行為は、初めは笑われる場合がある。皆に、おかしく思われる場合がある。しかし、あとになって明確に答えがわかる。

詩人であったドイツのシラーがこう言った。「一人が立てる時に強き者は、真正の勇者なり。」と。

青春時代から、私が大事にしてきた言葉です。

反対に、付和雷同は、「悪」です。みんながこうしようと言うから、何となく、ついていく。みんながこれでいいんだという堕落の方向に行ってしまう。これがこわい。これが日本人の最大の欠点の一つでもある。

みんなが「戦争はいいんだ」と言うと、悪の方向であっても抵抗しない。一人、敢然と立ち上がって、「それは間違っている!」と叫ぶ勇気がない。周囲の空気に流され、表面的に格好のよいものに流されてしまう。しかし、こういう時に、断じて、「道」を踏みはずしてはいけない。

平和への思い、学ぶ姿勢、人間愛を断じて捨ててはいけない。それらを実行し、広げていこうというのが

「勇気」です。勇気は「自分自身」の心の中にある。その心の中から「自分自身」が出すのです。

「みんなと一緒であればいい」というのは、勇気ではなく、臆病だ。民主主義ではなく、ファシズムです。民主主義というのは、民衆一人一人が「自分が社会の主人公だ。自分に責任があるんだ」と自覚しなければいけない。そうではなく、「自分さえよければいい」という利己主義、「大勢の言うことに従っていればいい」と いう付和雷同。これが多すぎる。

「一人立つ」勇気をもってこそ、平和の方向へ、善の方向へもっていけるのです。

その「勇者」が団結し、連帯してこそ、社会が変わるのです。

まず、自分が勇気を出すことだ。そこから、すべては始まる。「勇気」とは「正義」と一体なのです。

「正しいことをやるんだ」「正しい社会をつくるのだ」「人間としての正しい道を行くのだ」と。

自分のために だけではなく、人のため、世のために、と いう、善の行動をする。そのための「宝の力」が勇気です。いちばん地味であるけれど、いちばん光りかがやく行為です。

(青春対話2)




【7】


信教の自由

権力が暴走し、猛威を振るうときには、

必ず思想や信教への介入が始まる。

ゆえに、思想・信教の自由を守る戦いを忘れれば、

時代は暗黒の闇のなかに引きずり込まれることを知らねばならない。

これこそ、時代の法則であり、歴史の証明である。


【8】


口で革命を叫ぶことはたやすい。時代の“勢い”がある場合は、なおさらである。

 幕末の動乱の世――。社会変革を志した若者は、時代の変化また変化を鋭くキャッチし、大いなる理想の実現に熱い血を燃やした。

 その青年の、はやり立つような思いは、友から友へ、国から国へと伝えられ、“時代の熱気”として高まり、脈打っていった。そこには若々しい正義感もあった。“熱病”のような伝染の力もあった。華々しい活躍を夢みる功名心もあったにちがいない。

 こうした時の勢いに乗じて、走り始めることは、ある意味でたやすい。学会でいえば、できあがった組織の上に安住しながら、威勢のよいことを口走っているだけの姿といえるかもしれない。

 しかし、時代を画する革新の動きには、必ずや“反動”がある。これは現在もまた、すべての戦いのなかに起こる、いわば“法則”である。苛烈な迫害と弾圧、中傷と策謀等となって、激しく、また陰険に襲いかかってくる。

 反動こそ、本物の革命家の証明である。本物であり、現実的な力があるからこそ、大きな迫害となって現れる。ゆえに、反動勢力に叩かれている人、その人にこそ注目し、信頼を寄せていくのが、道理を知る者の“眼”である。

 そして、この“反動”があった時こそ、その信念の深さ、一個の人間としての真価が問われる時なのである。

(1990.1.15 神奈川県青年学生代表者会議)




【9】


創価学会の原点は、「われ地涌の菩薩なり」との、戸田城聖の獄中の悟達にある。

地涌の菩薩は、末法濁世の社会のあらゆるところで、それぞれがあるがままの姿で正法を弘め、仏法を行じていく。この地涌の使命を自覚し、自分自身が今いる場所で、広宣流布のための戦いを起こすのだ。その時、何ものにも負けない地涌の生命が、わが胸中に脈打つとともに、諸天諸仏が守護し、無量の功徳に浴することができるのである。

しかし、その功徳、福運を消し、幸福への軌道を踏み外してしまうことがある。それは同志間の反目、諍いである。

山本伸一は、厳しい口調で語っていった。

「『松野殿御返事』には、十四の法華経への誹謗、つまり十四誹謗について記されています。

誹謗とは、"そしる"ことですが、そのうちの最後の四つは、軽善、憎善、嫉善、恨善といって人に対するものです。御本尊を持つ人を、軽蔑したり、憎んだり、嫉妬したり、恨んだりすることです。一言すれば、同志への怨嫉であり、いがみ合いです。

日蓮大聖人は、十四誹謗の罪は極めて重いので、『恐る可し恐る可し』(御書1382㌻)と、戒められている。怨嫉というのは、自分の功徳、福運を消してしまうだけでなく、広宣流布の組織を破壊していくことになる。だから怖いんです。

皆が心から団結できない。どうも、組織がすっきりとまとまらない。皆、頑張っているのに、功徳を受けられないでいる――そうした組織をつぶさに見ていくと、必ず、怨嫉問題が潜んでいます」

なぜ、御本尊を持った人同士が、時には幹部同士が、怨嫉し合うことが生ずるのか。

大聖人は、「十四誹謗も不信を以て体と為せり」(同九七ページ)と御指摘になっている。

皆が仏の使いであり、地涌の菩薩であることや、生命の因果の理法など、妙法を信じることができないところに、その根本的な要因があるのだ。

(「新・人間革命 第26巻 法旗31」)




【10】

他人との衝突を避け、悪を見て見ぬふりをする、事なかれ主義。だれもが皆、この姿勢で、ずるがしこく、″上手に″立ち回るようになれば、社会はどうなるか。

悪人がどんどんはびこり、善人が迫害される社会になってしまう。仏法者として、それを放置することはできないーー。

ゆえに、先生は、「善の戦い」すなわち「悪との戦い」に、決然と立ち上がられたのである。「悪への挑戦」を開始されたのである。

″悪を見て、放置してはならない″ーーこれが、真実の仏法の教えだからである。

「悪人は結託する」ーー牧口先生は、こう喝破された。

悪人は何かしら弱みをもっており、孤立していては安心できない。ゆえに、他人と共同し、とくに強者の保護のもとで、その身を守ろうとする、と。また共通の敵に当たるために、たやすく結束をする、と。

(「悪人は孤立しては安心してはいられないほどに生存上の欠陥をもっているがために、たちまち他人と共同し、ことに強者庇護のもとに在って、その身を防禦しようとするのである」「犯罪者は何処にあっても、常に戦々兢々として発覚を怖れるがゆえ、共同の敵に当たるためには、容易く結束をなしてそれにともなう窮屈や圧迫を忍ぶ」〈「創価教育学体系」〉)

いつの時代も変わらぬ悪の方程式を、牧口先生は見抜かれていた。現代にも通じる、牧口先生の「哲学」であり、「予見」である。先生は、まことに不思議な、偉大な方であられた。

しかし、「悪人たちの結託」に対して、善良な人は、なかなか力を合わせることができない。それはなぜか。

「善人は自分に弱味のないので、孤立して対抗力を形成することをしないから圧迫され勝ちである」(「小学校長登用試験制度論」、牧口常三郎全集第八巻)

つまり、善人は悪人と違い、自分に弱みがないので、わざわざ団結しようとしないというのである。その結果、どうなるか。

「強くなってますます善良を迫害する悪人に対し、善人はいつまでも孤立して弱くなっている。一方が膨大すれば、他方はますます畏縮する。社会は険悪とならざるを得ないではないか」(前掲「教育改造論」)

結託し、どんどん強くなる悪の力。孤立し、ますます弱くなる善の力。それでは、社会はすさみ、暗くなる。険悪となっていく。現代の日本そして世界も、先生の言葉の通りになってしまったといえないだろうか。

「善」は強く、「善の連帯」は無敵

こうした悪の結託を打ち破るためには、明確な形として、「戦う善の力」を連帯させなければならない。ゆえに牧口先生は、民衆の善なる力の結集を目指して、「創価教育学会」を創立されたのである。(拍手)

″理論や理屈だけではだめだ。現実のうえで、民衆が、正義に連なっていくために、何ものにも壊されない「善の連帯の組織」「正義の組織」をつくろう″

これが、学会の創立にこめられた、牧口先生、戸田先生の心であられた。

(1994.11.12 創立の日記念・本部幹部会「池田大作全集85」)


【11】

名誉会長: ユングは言っている。“国家こそ尊い”ということを民衆に吹きこみたい権力者にとって、一番邪魔になるのは「国家に妥協せず独自の道を歩む」宗教であり、彼らは必ず、そういう宗教を「足元からすくおうとする」と。そういう宗教は、「『この世』の権威に対立するもう一つの権威を教える」ゆえに、人々を国家の奴隷にするのに都合が悪いからです。

ユングは、ずばりと言った。

「独裁国家は個人だけでなく、個人の宗教的な力をも吸い上げてしまうのである。かくして国家は神の位置に取って代わる」

須田: 「国家は神の位置に取って代わる」。まさに国家崇拝です。

遠藤: しかも、多くの人々は、自分が国家主義に取りこまれていることに、気がつきません。

無関心でいるうちに、いつのまにか、その道に「乗せられて」しまっている。気づいた時には、引き返せない地点まで来ている。ここに問題があります。

名誉会長: ユングの結論は、国家主義の魔性に抵抗する唯一の力は、個々人が「人間は小宇宙であり、偉大なる宇宙を小さな世界のなかに映し出している」という人間尊厳の自覚をもつことであるというのです。

斉藤: そうですか! これは、まさに法華経です。

名誉会長: その反対に、現代は「一人では何もできないといった個人の無意味さが、一人ひとりの人間に完全に染み込んでおり、誰かに自分の気持ちを伝えようなどという望みはまったく失っている」と彼は嘆いている。

須田: たしかに「自分ひとりが何をしたって、どうしようもない」という“無力感”は、今、蔓延しています。自分の考えや、怒りを人に伝えても、しかたがないという孤立化もあります。連帯がありません。

遠藤: そうやって、皆が内にこもり、沈黙することが、権力者の“思うつぼ”なのですね。私たちの運動が、どれほど大切かと確認できました。

名誉会長: 神力品では、宇宙大の「広宣流布の瑞相」が示されたが、「人間革命」とは、一人の人間という「小宇宙」における「広宣流布」です。

自分の中の「大生命力」を噴出させるのです。大地をたたき破って出現した地涌の菩薩のように。

(「法華経の智慧」普及版・下巻P157)