「54年問題」(①+②)改

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1979年(昭和54年)4月24日。池田先生は、第3代会長を「辞任」しました。

しかし、その真実は、のちに先生ご自身の随筆やスピーチによって明らかになります。

「54年問題」は、現在の「創価学会」の底に潜む「悪」として捉えなければなりません。


【1】

嵐の「4.24」 断じて忘るな!学会精神を

随筆 新・人間革命 79より
1999年4月27日掲載
先日、ある著名な学者から、伝言をいただいた。
それは、私を励ましてくれる好意的な内容であった。
「これだけ壮大なる創価学会になったからには、苦労も苦難も多いでしょう。
日本を動かす原動力の一つになったことは、まことに偉大なことであります。
若い時に、身体が弱かった貴方だから、健康のことを心配しておりましたが、この何十年もの間に、いよいよ大偉業を完遂してゆく姿に、心から感嘆し、頭が下がる思いです」
また、ある高名な方からも、励ましのお手紙をいただいた。
「これほどまでに、平和勢力を築き上げた大事業に、喝采を送ります。
戦前戦後を通じて、これほどの業績は、誰も成し遂げることができませんでした。政治家でもない、著名人でもない、一民間人が、戸田会長という偉大な師匠があったことは事実としても、これほどの大業は、とうていできないものです。
しかも、悪意の中傷を数多く受け、さらにまた、反対勢力の策略と陰謀を撥ね返してこられた。日本狭しと見下ろしながら、全世界を志向してのご活躍、そして、巨視眼と先手を打ちながらの平和活動は、それはそれは、歴史に残ることは絶対に間違いないでしょう」
また、長年、おつきあいした文化人からは、「奇跡という他ない。誰からも誉められず、嫉妬され、けなされながらも、現実に未だかつてない偉業を創り上げた大芸術は、ナポレオンもユゴーも、きっと賛嘆するであろう」と。
1979年(昭和54年)の4月24日―。
 この日、私は、19年間にわたって務めた、創価学会第三代会長を退き、名誉会長となった。
 全国の、いや、全世界の同志は、その発表に、愕然として声をのんだ。
 その背後には、悪辣なる宗門の権力があり、その宗門と結託した反逆の退転者たちの、ありとあらゆる学会攻撃があった。
 なかんずく、私を破壊させようとした、言語に絶する謀略と弾圧であった。
 正義から転落した、その敗北者たちは、今でも、その逆恨みをはらさんと、卑劣な策略を続けている。これは、ご存じの通りである。
 御聖訓には、随所に説かれている。
「法華経の行者は諸々の無智の人のために必ず悪口罵詈等の迫害を受ける」と(趣旨、御書140㌻等)。
 広宣流布の闘争のゆえに、悪口罵詈されるのが、真の法華経の行者といえるのである。
さらに「佐渡御書」には、「賢人・聖人は罵詈して試みるものである」(通解、同958㌻)と。
 真実の信仰者は、罵詈され、讒言され、嘲笑されて、初めてわかる。
 畜生のごとき坊主らの暴圧による、わが友たちの苦悩を、悲鳴を、激怒の声を聞くたびに、私の心は血の涙に濡れた。
 心痛に、夜も眠れなかった。
 私は、けなげな創価の同志を守るため、一心不乱に、僧俗の和合の道を探り続けた。   
 しかし、後に退転した、ある最高幹部の不用意な発言から、その努力が、いっさい水泡に帰しかねない状況になってしまったのである。
 それは、最初から、学会破壊を狙っていた仮面の陰謀家どもの好餌となった。
 坊主らは、狂ったように「責任をとれ」と騒ぎ立てた。
 私は苦悩した。
 ――これ以上、学会員が苦しみ、坊主に苛(いじ)められることだけは、防がねばならない。
 戸田先生が「命よりも大事な組織」といわれた学会である。
 民衆の幸福のため、広宣流布のため、世界の平和のための、仏意仏勅の組織である。
 私の心中では、一身に泥をかぶり、会長を辞める気持ちで固まっていった。
 また、いずれ後進に道を譲ることは、何年も前から考えてきたことであった。
 ある日、最高幹部たちに、私は聞いた。
「私が辞めれば、事態は収まるんだな」
 沈痛な空気が流れた。
 やがて、誰かが口を開いた。
「時の流れは逆らえません」
 沈黙が凍りついた。
 わが胸に、痛みが走った。
 ――たとえ皆が反対しても、自分が頭を下げて混乱が収まるのなら、それでいい。
 実際、私の会長辞任は、避けられないことかもしれない。
 また、激しい攻防戦のなかで、皆が神経をすり減らして、必死に戦ってきたこともわかっている。
 しかし、時流とはなんだ!
 問題は、その奥底の微妙な一念ではないか。
 そこには、学会を死守しようという闘魂も、いかなる時代になっても、私とともに戦おうという気概も感じられなかった。
 宗門は、学会の宗教法人を解散させるという魂胆をもって、戦いを挑んできた。それを推進したのは、あの悪名高き弁護士たちである。
 それを知ってか知らずか、幹部たちは、宗門と退転・反逆者の策略に、完全に虜になってしまったのである。
 情けなく、また、私はあきれ果てた。
 戸田会長は、遺言された。
「第三代会長を守れ! 絶対に一生涯守れ! そうすれば、必ず広宣流布できる」と。
 この恩師の精神を、学会幹部は忘れてしまったのか。なんと哀れな敗北者の姿よ。
 ただ状況に押し流されてしまうのなら、一体、学会精神は、どこにあるのか!
 そんな渦中の、4月12日、私は、中国の周恩来総理の夫人である鄧穎超(とうえいちょう)女史と、迎賓館でお会いした。
 その別れ際に、私は、会長を辞める意向をお伝えした。
「いけません!」
“人民の母”は笑みを消し、真剣な顔で言われた。
「まだまだ若すぎます。何より、あなたには人民の支持があります。人民の支持のあるかぎり、やめてはいけません。一歩も引いてはいけません!」
 生死の境を越え、断崖絶壁を歩み抜いてこられた方の、毅然たる言葉であった。
 やがて、暗き4月24日を迎えた。火曜日であった。
 全国の代表幹部が、元気に、新宿文化会館に集って来た。
 しかし、新たな“七つの鐘”を打ち鳴らす再出発となるべき、意義ある会合は、私の「会長勇退」と、新会長の誕生の発表の場となってしまったのである。
 大半の幹部にとって、まったく寝耳に水の衝撃であった。
 私は途中から会場に入った。
「先生、辞めないでください!」「先生、また会長になってください!」
「多くの同志が、先生をお待ちしております!」などの声があがった。
 皆、不安な顔であった。
「あんなに暗く、希望のない会合はなかった」と、後に、当時の参加者は、皆、怒り狂っていた。
 私は、厳然として言った。
「私は何も変わらない。恐れるな!
 私は戸田先生の直弟子である! 正義は必ず勝つ!」と。
 あまりにも 悔しき この日を 忘れまじ
   夕闇せまりて 一人 歩むを
 これは、4月24日に記された日記帳の一首である。
 わが家に帰り、妻に、会長を辞めたことを伝えると、妻は、何も聞かずに「ああ、そうですか……。ご苦労様でした」と、いつもと変わらず、微笑みながら、迎えてくれた。
(「池田大作全集」第129巻所収)



【2】

昭和54年5月3日 師子となりて 我は一人征く

随筆 新・人間革命 80より
1999年5月1日掲載
その日は、雲一つない″五月晴れ″であった。
武蔵野の丘は、生命と青春を飾りゆくように、ツツジの花に包まれていた。
その花々の彼方は、大きな真実の沈黙を漂わせた、新緑に輝いていた。
妻が、まぶしそうに言った。
「まるで、十九年前と同じ天気ですね……」
――確かに一九六〇年(昭和三十五年)、私が第三代会長に就任した日も、快晴であった。
その日の夜、大田区の小さな貧しい家で、二人して夜空を仰ぎ、「あの星は、ホタルが輝いているように見える」と語り合ったことを思い出す。
この十九年間、絶望の闇を切り開き、無限の平和の大帝国を建設するために、わが死闘は続いた。
1979年、すなわち昭和54年の5月3日――。
 間もなく、創価大学の体育館で、“七つの鐘”の総仕上げを記念する、第40回の本部総会が行われることになっていた。
 本来ならば、その日は、私は、偉大なる広宣流布のメッセージを携えて、創価の栄光を祝賀する日であった。
 すべての同志が熱意に燃えて、楽しき次の目標をもち、至高の光を胸に抱きながら迎えゆく、歓喜の日であった。
 尊い広布の英雄たちが微笑をたたえ、共々に、珠玉の杯を交わしながら祝うべき日であり、大勝利の鐘を自由に打ち鳴らす日であった。
 しかし、嫉妬に狂った宗門をはじめ、邪悪な退転者等の闇の阿修羅が、この祝賀の集いを奪い去っていったのである。
 午後2時から始まる総会の開会前であった。
 妬みと滅びゆく瞋恚の魂をもった坊主を乗せたバスが、大学に到着すると、私は、ドアの前に立ち、礼儀を尽くして、彼らに挨拶した。
 ところが、坊主たちは、挨拶一つ、会釈一つ返すわけでもなく、冷酷な無表情で、傲然と通り過ぎていった。
 学会伝統の総会も、いつものように、学会らしい弾けるような喜びも、勢いもなく、宗門の“衣の権威”の監視下、管理下に置かれたような、異様な雰囲気であった。
 ある幹部が後で言っていた。
「冷たい墓石の上に座らされたような会合であった」
 激怒した声が多々あった。
 会場からの私への拍手も、遠慮がちであった。
 また、登壇した最高幹部は、ほんの数日前の会合まで、私を普通に「池田先生」と言っていたのが、宗門を恐れてか、ただの一言も口にできない。
 私をどうこうではない。
 それは、強き三世の絆で結ばれた、会員同志の心への裏切りであった。
 婦人部の方が怒っていた。
「どうして、堂々と、『今日の広宣流布の大発展は、池田先生のおかげです』と言えないのでしょうか!」と。
 私が退場する時も、戸惑いがちの拍手。
「宗門がうるさいから、今日は、あまり拍手をするな。特に、先生の時は、拍手は絶対にするな」と、ある青年部の最高幹部が言っていたと、私は耳にした。
 恐ろしき宗門の魔性に毒されてしまったのである。言うなれば、修羅に怯えた臆病者になってしまったのである。
 しかし、私を見つめる同志の目は真剣であった。声に出して叫びたい思いさえ、抑えに抑えた心が、痛いほど感じられた。
体育館を出た直後、渡り廊下を歩いている私のもとに駆け寄って来られた、けなげな婦人部の皆様との出会いは、今も、私の胸に深く、くい込んで離れない。
 会合が終わり、特別の控室にいた高僧や坊主どもに、丁重に挨拶をしたが、フンとした態度であった。これが人間かという、そのぶざまな姿は、一生、自分自身の生命に厳存する閻魔法王に、断罪されることは、絶対に間違いないだろう。
 仏法は、厳しき「因果の理法」であるからだ。
 私は思った。
宗門と結託した、学会攪乱の悪辣なペテン師たちは、これで大成功したと思い上がったにちがいない。彼らは、「これで、計画は着々と準備通りに進んでいる。これでよし! これで完全勝利だ」と計算し、胸を張っていた。
 その陰湿さと傲慢さが、私には、よく見えていた。
 私は、ずる賢き仮装の連中の実像を、その行動から見破ることができた。
 この陰険極まる、狡猾な連中には、断固として、従ってはならない。いかなる弾圧を受けようが、「忍耐即信心」である。
 学会は、蓮祖の仰せ通りの信仰をしている。死身弘法の実践である。柔和な忍辱の衣を着るべきである。
 学会に敵対する彼らは、蓮祖の姿を借りて、真実の仏の使いを道具にし、利用し、破壊しているのである。
 これが、恐ろしき魔性の荒れ狂った、現実の実態であった。
 あまりにも悲しく、あまりにも情けなかった。
 本来、宗教は、人間の幸福のためにあるものだ。
 それが、坊主の奴隷になり、権威の象徴の寺院・仏閣の下僕になってしまうことは、根本的に間違いである。
 私は、重荷を、また一層、背負った気持ちで、皆と別れ、自宅には帰らず、神奈川文化会館に走った。
「今朝の新聞に、先生のお名前が出ていました」
 神奈川文化会館で、側近の幹部が教えてくれた。
 この3日付の読売新聞には、日米国民の「生活意識」調査の結果が掲載されていた。
 その中に、日本人が「尊敬する人物」に挙げた上位20人の第6位に、私の名前が出ているというのであった。
 上から、吉田茂、野口英世、二宮尊徳、福沢諭吉、そして、昭和天皇と続き、その次が私である。
「会長勇退」直後の5月3日に、このような記事が出たことに、私は不思議なものを感じた。
 また、同志の皆様が、懸命に私を応援してくださっているようにも思われた。
 数日後、ある識者の方からいただいたお手紙は、この調査のことを非常に驚かれ、こう結んであった。
「現存する人物では、民間人の第1位です。
 そして、日本の宗教界では、貴方、お一人だけです。まさに宗教界の王者です。どんなに、戸田会長がお喜びになるでしょうか!」
「大事には小瑞なし、大悪を(起)これば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし」(御書1300㌻)とは、日蓮大聖人の絶対の御確信であられる。
 誰が何と言おうが、私は私の信念で勝つことを決心した。
 そして、ただ一人、今まで以上の多次元の構想をもちながら、戦闘を開始した。
「獅子は伴侶を求めず」とは、よく戸田先生が、私に言われた言葉である。
 一人、孤独になった私は、無言のうちに、必ずや、真実の伴侶はついてくるであろうと信じていた。
 師弟の両者が一つの姿で、無限に戦い、舞い、走り、勝利しゆく。私は、その新しき時代の、新しき伴侶を待っていた。
 神奈川の地は、世界に通じる港である。
 ここから、私は「一閻浮提広宣流布」との大聖人の御遺言を遂行する、決意を新たにした。そして、「正義」という二字を書き記した。
 この意義を深く留めて後世に伝えてほしいと、側にいた数人の弟子に託した。
 5月5日のことである。
いったん帰京した私は、東京の開拓の新天地、第二東京の拠点の立川文化会館に向かった。
すでに、夕方近かった。別な世界を見る思いで、まさに沈みゆかんとする夕日の光景を、しばし呼吸した。
夕暮れの立川に着くと、その清楚な頬に頬ずりしたいような、憧れの月天子が、顔を見せてくれた。
私は一詩を詠んだ。
 西に 満々たる夕日
 東に 満月  煌々(こうこう)たり
 天空は 薄暮 爽やか
 この一瞬の静寂
 元初の生命の一幅の絵画
 我が境涯も又
 自在 無礙(むげ)に相似たり
この日、五月十一日の日記に記したものである。
世界の創価学会は、太陽と同じく、太陽の生命で、永遠に転教を休むことなく、進みゆくことであろう!
また、断固、勝っていくことであろう!
(「池田大作全集」第130巻所収)



【3】

2004.10.28 各部代表者会議での先生のスピーチ

(抜粋)
愛する同志のために戦う!
私が、かつてしるした「正義」の揮毫について述べたい。
(=その場で墨痕鮮やかな「正義」の書が紹介された)
「正義」――この文字は、あの嵐の昭和54年(1979年)、第3代会長を勇退した直後の5月5日、神奈川文化会館でしたためたものである。
その2日前の5月3日、創価大学の体育館で本部総会が行われた。それが実質的な❝会長辞任の総会❞となったのである。
その陰には、嫉妬の宗門と結託した醜い反逆者たちのさまざまな陰謀があった。
しかし、どんな立場になろうとも、私は変わらない。正義は、どとまでいっても正義である。
世界の広宣流布を成し遂げていくのだ! 愛する同志のために戦いぬくのだ!
こう深く心に期した私は、総会の終了後、学会本部には戻らず、神奈川文化会館へ向かった。横浜の港から、洋々たる海を見ながら、世界広布の新たな指揮を執り始めたのである。
その神奈川文化会館で5月5日に書きしるしたのが、この「正義」の2文字であった。
脇書には、「われ一人正義の旗持つ也」とつづったのである。
反逆した人間の末路は無残
恩師の戸田先生は「第3代会長を守れ! そうすれば、創価学会は盤石であり、広宣流布は必ずできる!」と遺言された。この厳命に背いた人間たちもいた。
そして、勇退から25年を経た今、反逆の輩は無残な末路を迎え、宗門は衰退の一途をたどっていることは、皆さんがご承知のとおりである。
私は勝った。正義の学会は、厳然と勝ったのである。(拍手)
全国の同志の皆さま方も、今日まで本当にまじめに、誠実に頑張ってくださった。
とくに私は、あまり日のあたらない、目立たないところで、広布のために、粘り強く努力してくださっている方々を心から誉め讃えたい。最大に賞讃の光をあてて差し上げたいのである。
こうした、懸命に陰で戦ってくださる方々のおかげで、学会は❝日本一の教団❞になったのである。❝世界的な学会❞になったのである。本当にありがとう!(拍手)
広宣流布を現実に前進させているのは、会員である。無冠の同志である。役職が高いから偉いわけではない。役職は言うなれば❝仮の姿❞にすぎない。大事なのは❝さあ戦おう!❞という本因の一念があるかどうかだ。この深き決意に立った同志たちが、なかんずく青年たちが、新しい勝利の歴史をつくったのである。それを絶対に忘れてはならない。
ともあれ、皆さんも地元に帰ったら、地域の同志の方々に、「いつも、ありがとうございます!」「いつまでもお元気で!」「ご健康を祈っています!」等と大いなる讃嘆と励ましを贈っていただきたい。
すべては後継者で決まる
きょうは大事な会合でもあり、日興上人の「原殿御返事」を拝しておきたい。
「原殿御返事」は、日興上人が、身延離山の前年に、原殿に与えられた書状である。これには、日興上人が身延離山を決意された事情と心境がくわしくしるされている。
御手紙を受け取った原殿は、邪師にたぶらかされた波木井実長の一族でありながら、正しい信心を持った人物とされる。明確ではないが、実長の子息のだれかをさしていると推測される。
日興上人は、この後継の信徒に、大切な手紙を送ったのである。
すべては、後継者で決まる。青年が育っかどうかにかかっている。
ゆえに、青年を下に見て、自分は組織の上にあぐらをかき、大変なことは全部、青年にやらせる。そんな幹部がいれば、とんでもないことだ。いちばん大切なのは、青年なのである。
日蓮大聖人に、お仕えした日興上人もまた青年であった。
日興上人は、数え13歳の時に、大聖人の弟子となり、伊豆流罪、佐渡流罪にお供し、大聖人が御入滅になられるまで常随給仕されたのである。日興上人は、原殿に、こう語られる。
「大聖人のお弟子(五老僧等)は、ことごとく師敵対してしまった。日興一人、本師(大聖人)の正義を守って、(広宣流布の)本懐を遂げるべき人であると自覚している。ゆえに、大聖人の御本意を忘れることはない」(編年体御書1733㌻、通解)
大聖人は、御自身の一切を日興上人に付嘱された。そして日興上人、ただお一人が、大聖人の「正義」を守りぬかれたのである。
反対に、五老僧は、師匠である大聖人に背いていった。権力の迫害を恐れた臆病のゆえであり、日興上人への嫉妬のゆえであった。自身の生命に巣くう名誉欲や慢心のゆえであった。
五老僧――言うなれば大聖人門下の最高幹部である。この最高幹部が大聖人の御精神にことごとく違背し、「師敵対」したのである。
先ほども申し上げたが、学会を裏切り、師敵対し、同志を裏切っていった人間たちも、やはり最高幹部であった。これが重大なる歴史の教訓である。
日興上人は青年を育てた。御自身の持てるものすべてを、青年にそそいでいかれた。
青年を大事にする指導者こそ本物である。広布のリーダーは「後輩を一人も脱落させてはいけない」「全員を広布の人材に育てよう」と祈りに祈り、後輩のために走りぬいていくことだ。そこに、万年に続く「令法久住」の方程式がある。
青年こそ宝! いちばん大切なのは青年!
ともあれ、次の五十年へ、青年にすべてを託す以外にない。
そのためには、諸君全員が、創価学会の「会長」であり、「責任者」であり、「大指導者」であるとの自覚で、全責任を担い立っていただきたい。


【4】

2006.1.12 神奈川・静岡合同協議会での先生のスピーチ

(抜粋)
昭和54年5月3日 迫害の嵐の中、神奈川文化会館へ! 
神奈川から海を見つめて世界広布の指揮を決意!
大勢の同志が待っていた
 一、私が、昭和54年5月3日、創価大学での儀式を終えて、その足で、一番はじめに来たのが、ここ神奈川文化会館であった。
到着したのは、午後6時59分。妻と一緒であった。
そこには、大勢の、山をなした神奈川の同志がおられた。
会館の前の、1階から2階にあがる大きな階段にもいた。皆、大拍手で迎えてくださったのである。
 あの時、なぜ私は、神奈川に行ったのか。
それは、未来を見つめてのことであった。
本部でもない。
東京でもない。
神奈川文化会館の前から、海を見つめて、これからは全世界の指揮を執ろう!
小さくて窮屈な、嫉妬の小国よりも、世界に向けて指揮を執ろう!
そう決意していたのである。
 私は全世界を志向して神奈川に来た。
この海の向こうに、アメリカがある。ヨーロッパがある。アフリカがある。アジアやオセァニァにも通じている。
海を見るたびに、構想は広がった。
当時、嫉妬と陰謀と謀略、妬みと焼きもちが渦巻いていた。
創価学会が、あまりにも大発展しているゆえであった。
反発した邪宗門の坊主らが、若干の騒ぎを起こしていた。
その時に私は、もっと高次元から、世界を凝視した。
 ーーちょうどいい。
 世界広宣流布の布石を、本格的に始めようーー!
 そして今や、五大州の190もの国や地域に、学会の平和勢力、文化勢力が発展したのである(大拍手)。 私の指揮と行動は正しかった。
戸田先生がおられたならば、「よくやった、よくやった」と讃嘆してくださることだろう。
その師が今いないことは、さびしい限りである。
関西が立った! 埼玉も立った!
 一、私が第3代会長を辞任したのは、この昭和54年の4月24日であった。
 その時、真剣に、「偉大な学会と、宗門を発展させてきた大指導者が、なぜ、会長を辞めなくてはいけないのか」と、馳せ参じた友がいた。
藤原武君(現・関西長)をはじめとする関西の七勇士であった。
その目は燗々と輝き、その態度は「必ず自分が師を護る」という強い強い魂が光っていた。
今、彼らは、悠然として関西で、最大の勝利の指揮を執りながら、戦っている。
 あの時、友は熱い熱い涙を見せた。その光景は一生涯、忘れることができない。
 私は言った。
 「新しい時代を必ずつくる。 君も一緒に頼む。 あとになって、皆が、偉大な仕事をしたと驚嘆するであろう」と。
 学会を弾圧した、恩知らずの邪宗門の連中は皆、もう立ち上がれないだろうと思っていたに違いない。
 心堕(お)ちた学会の幹部もいた。しかし、あとになって、幾人か、「あの時は、本当に申しわけなかった」と懺悔(ざんげ)してきた者もいた。
関西が立ち上がった。続いて埼玉の同志が立ち上がって、声をあげた。
「これだけの大功労の会長を、なぜ宗門も、幹部も、辞めさせたのか。
『勇退』と言いながら、引きずりおろした。
 学会の将来は、池田先生がいなくては、めちゃくちゃじゃないか。分裂してしまう」
こう憂えていたのである。
「第3代会長を守れ! そうすれば、広宣流布は必ずできる」
これが戸田先生の遺言であった。最高幹部ならば、皆、知っていることである。
何よりも、日蓮大聖人が「難こそ誉れ」「難こそ安楽」と教えられている。
何があろうと、いかなる波浪があろうとも、私は、戸田先生との誓いの道をゆく。平和の道、希望の道、広布の道を、朗らかに歩み抜く。
一、大聖人の仏法の真髄は「進まざるは退転」である。
 広宣流布へ前進また前進ーー そのために、リーダーは心を砕くことだ。間断なく手を打ち続けていくことである。
 戸田先生も、牧口先生も、一面から言えば、本当に、口やかましかった。
「こんなに細かいことまで」と皆が思うほど、神経をめぐらせた。
基本に徹し、よき伝統を守ることだ。それをないがしろにすると、あとで困る。崩れていく。
よき伝統というのは、皆が納得し、安心するものである。正しい指導をたもっていける。
教育の世界でも、優れた学校には、素晴らしい伝統があるものだ。
リーダーは、よき伝統を大事にしながら、「堅実な発展」を心していただきたい。



【5】

2006.12.22 全国最高幹部協議会での先生のスピーチ

(抜粋)
一、昭和54年の4月、私は第3代会長を辞任した。
その背後には、嫉妬に狂った宗門と反逆者の醜い結託があったことは、皆さんがご承知の通りである。
ここから私は、一人立ち上がって、今日の学会を築いてきた。これが人生である。これが正義である。
戸田先生は言われた。「いかなる事件に出あおうとも、いかなる事態になろうとも、ただ一人立つことが大事なのだ」
策とか要領で、これほどの学会が築けるわけがない。
正義ならば、ただ一人立て!──この師弟の真実に徹してきたから、私は勝った。学会は勝ったのだ。
これからは、今以上に心を一つにして、堂々と正義と真実を語り合っていくことだ。
そして、この仏意仏勅の学会をバカにしたり、厳粛な師弟の精神を軽く見るような慢心の幹部が出たならば、絶対に放置してはいけない。勇気をもって厳然と責め抜いていかなければ、学会の未来に発展はない。
若い人を大事に伸ばしていくことだ。青年こそ未来の原動力である。それを忘れてはいけない。



【6】

2008.11.26 代表幹部協議会での先生のスピーチ

(抜粋)
師に捧げた人生
 一、思えば、戦後間もないころ、戸田先生の事業は挫折し、先生は学会の理事長を辞任された。学会は四分五裂の危機にあった。
 その時に私は、ただ一人、すべてをなげうって先生を支えた。絶体絶命の窮地にあった先生を、徹してお護りし抜いた。
 私がいなければ、今の学会はない。戸田先生、そして牧口先生の死身弘法の闘争も、水泡に帰すところであった。それほど、第3代が大事だったのである。このことは、御本尊の前で胸を張って申し上げることができる。
 私が戸田先生の後を継ぎ、第3代会長に就任してからも、激しい迫害の連続であった。
 誹誇もあった。
 中傷もあった。
 そのなかで、私は世界への道を開いた。皆が悠々と、安心して、広宣流布に邁進できるように、人知れず心を砕き、わが人生を捧げてきた。語りに語り、書きに書いて、あらゆる面で広布を支えた。
 そして迎えた昭和54年(1979年)。
 会長就任から20年を目前にし、学会は、いわば絶頂期にあった。
 その時に私は、第3代会長の辞任を余儀なくされたのである。
 心卑しき人間は、偉大なものに嫉妬する。
 謀略の輩は、虚栄に溺れ、私利私欲から野合して、師弟の道を壊そうとした。臆病者は保身に走った。
 御聖訓には仰せである。「この法門についた人は数多くいるけれども、公私ともに大難がたびたび重なってきたので、一年、二年はついてきたものの、後々には、皆、あるいは退転し、あるいは反逆の矢を射た。また、あるいは身は堕ちなくても心は堕ち、あるいは心は堕ちなくても身は堕ちてしまった」(御書1180㌻、通解)
 その通りの、浅ましく、情けない、愚劣極まる姿があった。
 あの時、全国、全世界の同志から、多くの連絡をいただいた。
 ーー最も功績があり、最も師匠に仕えた池田先生が、どうして辞めなければいけないのか。先生は、何一つ悪いことはしていないじゃないか。幹部はなぜ、先生を護らないのかーー
 こうした悲しみと怒りの声が、電話で、手紙で、無数に寄せられ。その数は、直後のものだけでも、およそ8200から8300になる。
 この真の同志の心を、私は生涯、忘れることはない。そして、どのような立場になろうとも、私は永遠に、尊き同志を護り、学会を護り抜いていこうと、深く心に誓ったのである。
 私はあえて、真実の歴史を語り残しておきたい。これからの学会のため、広宣流布のため、誤りなく正義の道を進みゆくために、本当のことを語っておきたいのである。
 牧口先生は、「忘恩者」「不知恩者」を諸天善神が「加護し給う訳がない」と厳しく断じられた。
 その通りに、悪逆の輩は厳たる仏罰を受けている。皆様がよくご存じの通りだ。
 将来にわたって、若き諸君は、悪い人間に騙されてはならない。表では、いい格好をしながら、裏で策を弄する卑劣な人間もいる。正義の人が滅び去るのを、密かに待っている者さえいる。
 人ではない。自分が「真の弟子」の自覚に立つのだ。深き信心を奮い起こし、「仏眼」「法眼」をもって正邪を見抜くのだ。
 戸田先生は叫ばれた。「恐れれば、自滅するだけだ。敢然と突き進むのだ!」
 私はこの言葉通り、師に誓った道を、今日まで、敢然と突き進んできた。
 今、広宣流布の永遠の未来を考える時、何より大事なことは、若い世代の人たちを「真の後継者」へと育て上げることである。
 若き諸君は、人を頼らず、だらしない先輩など乗り越えて、断固、突き進むのだ。下から上へ、どんどん建設的な意見を述べるべきである。
 先輩も、これまで以上に、皆を大事にし、皆と一緒に、手を携え、肩を組みながら、進んでいくことだ。
 同志愛が光るリーダーであっていただきたい。話をする時も、さわやかな笑顔、皆がほっとするような声で、希望と勇気を贈っていただきたい。
 見栄っ張りではいけない。とくに男性は「王者の風格」をもたねばならない。
 ともあれ、正義の師弟を守ることが、広宣流布を守ることになる。学会の全同志を守ることになる。私は、そう心に刻んで生きてきた。
 一緒に進もう!
 一緒に戦おう!
 私は皆さんとともに、いよいよ総仕上げの戦いをするつもりである。
 年配の幹部も、パーツと花火があがるように、勢いよく、生き生きと生きるのだ。
 頑張ろう! 偉大なる学会を、ともどもに築いていこう!


【7】

正義は勝つ! 師弟は断じて勝つ!

2007.6.10 
聖教新聞より抜粋
私が第三代会長を辞任した 昭和54年の4月24日。
その夜 守口門真文化会館では 大阪の緊急本部長会が行われた。
わが関西長の西口君は 私の和歌を烈々と朗読した。
かつて学会の最高責任職である 理事長を辞任された戸田先生に 私が捧(ささ)げた一首である。
古(いにしえ)の
  奇(く)しき縁(えにし)に
   仕(つか)えしを
  人は変れど
   われは変わらじ
そして関西長は絶叫した。
「たとえ池田先生が会長職を辞めても、関西の私たちの師匠は永遠に池田先生です!」
その晩 夜を徹して走り東京の私のもとへ飛んできた大関西の青年がいた。
藤原君たち七勇士である。
「なんで先生が辞めなあかんのや!」
「我々は 誰がなんと言おうと池田先生と共に戦うんや!」
邪宗門と反逆者らが結託した魔軍の謀略はあまりにも非道であった。
会合に出るな。
聖教新聞に載せるな。
先生と呼ぶな……。
私と会員の絆を引き裂かんとする 卑怯きわまる 陰湿な離間工作であった。
偉大なる学会の組織を、尊き学会の使命を、そして学会の力ある運営と全財産を 盗み取ろうとする陰険なる陰謀が始まったのだ。
私を辞めさせ、次の会長を狡賢く造り上げ、その途端に
巨額の金を寄こせと脅した 悪辣な裏話を誰が知るか。
それほど狡猾な連中が 宗門と結託し 何人かの悪党と組んで 企んだのが私の引退劇である。
その記録は明確に残されている。
しかし 関西の弟子たちは 毛筋ほども揺るがなかった。
頭を上げて胸を張り、強く強く また正しく
師弟の誉れを 叫び切っていったのである。
御聖訓には仰せである。
「金は大火にも焼けず 大水にも流されず
 また朽ちることもない。鉄は水にも火にも ともに耐えることができない。
 賢人は金の如くであり 愚人は鉄の如きものである」
おお! わが信頼する大関西こそ 金の中の真金の賢者の連帯であった。
明るく そして正しく美しき 虹色に磨かれた
魂の光線のなかに 偉大なる勝利と栄光を 光らせていった。
常勝の
   歌声忘れじ
      常勝城
この昭和54年の7月には、豊中の関西戸田記念講堂で 関西の合唱祭りを開いた。
山本伸一作「常勝の空」を 声の限り歌ってくれた。
参加できぬ私に代わって 妻と 関西創価学園の教員であった 長男が出席した。
熱き血潮の 常勝大阪の門真の友が
「先生のもとへ馳せ参じようじゃないか!」と
学会本部に勇み来られたのは 昭和55年の早春であった。
彼らは叫んでいた。
冷酷で卑劣な連中に対して 彼らは勇敢に呵責した。
「大正義の人を陥れる 悪魔よ!増上慢よ!残忍な奴らよ!
 反逆のお前たちは 必ず打倒され 苦しみ戦いて 自分自身の断頭台に行くのだ」
常勝の善友は最後に 正義の師弟の万歳を叫んで帰っていった。
この創立50周年の創価の元旦「5月の3日」を
私は関西文化会館で 変わらざる常勝家族と祝った。
さらに5月5日の「後継者の日」には 凛々しき未来部の若武者に
「早く生い立て!」と新時代の栄光の旗を託した。
そして 昭和57年の3月22日。
中大阪の長居陸上競技場での 関西青年文化祭――
不可能を可能とする闘魂は 「六段円塔」とそびえ立った!
壮大な劇であった。 あまりにも偉大な 大芸術の開花であった。
その瞬間、金波銀波の大スタンドに 美事なる「関西魂」の 壮麗にして強烈な人文字が
鮮やかに描き出された。
今でもその光景を 私は忘れることができない。いな 誰人も忘れることが 出来ないであろう。
関西は! 私を守りに護った。
関西は! 正義のために戦い勝った。
青春の希望に燃え上がる 常勝関西の大グラウンドは
あまりにも荘厳な 常勝の喜びの 深く固いスクラムに揺れた。
常勝の大空までが歌い 賞讃している瞬間であった。
関西は 学会の根本使命を よく知っている。
関西は 師弟不二を 魂の奥深く知っている。
関西は 真実と正義の連帯を 知っている。
そして関西は 聡明と賢明な連帯を 知り抜いている。
恩師は言われていた。
「関西は強いぞ! 東京は 個人の優越感はあるけれども 関西には 連帯の優越感がある」
ああ! 関西魂とは 不撓不屈の負けじ魂である。
関西があれば 学会は永遠に微動だにしない。
どこまでも師と共に 広宣流布に生き抜くなかにこそ、
最高無上の幸福があることを、関西の哲人たちは 生命の底から知っている。
仏道の最極の到達点は ここに明快にあるからだ。
法華経にいわく。
『諸余の怨敵は 皆悉く催滅せり』
正法正義の陣列は あらゆる怨敵を 打ち倒すことができるのだ。
法華経にいわく。
『魔及び魔民有りと雖も 皆 仏法を護らん』
広宣流布のためには、いかなる魔軍たりとも 味方に変えることができるのだ。

【8】

2007.8.8 全国最高協議会での先生のスピーチ

(スピーチより抜粋)
まことの時に本物が分かる
 一、「報恩抄」の一節を拝したい。
 「少しの罪もないのに、(法華経を弘めているために)たびたび大難にあう人こそ、仏滅後の法華経の行者であると知りうるであろう」(御書297㌻、通解)と。
 現代において、この蓮祖の仰せ通りに、妙法ゆえの大難を受けきった人はだれか。
 初代の牧口会長であり、第2代の戸田会長である。
 お二人は、国家神道を精神的支柱とする軍国主義と真っ向から対決し、牢獄につながれた。
 牧口先生は信念を貫かれて獄死。
 戸田先生は2年間の獄中闘争を耐えに耐え抜かれた。
 戸田先生以外の弟子たちは、皆、驚き、あわてた。多くは難を恐れ、退転していった。
 「まことの時」にこそ、本物が分かる。信心が試される。
 「石はやけばはい(灰)となる金は・やけば真金となる」(御書1083㌻)と仰せの通りだ。
 日ごろは弟子を名乗りながら、手のひらを返すように、師を罵り、師が苦しむのを陰で笑った者もいた。臆病であり、増上慢であった。
 これが歴史である。
 弾圧の魔の手
 一、戸田先生は鋭く語られた。
 「戦後、日本は民主主義の国家になった。私や牧口先生を逮捕するのに使った、不敬罪や治安維持法もなくなった。そして、信教の自由も保障されるようになった。
 しかし、権力の持つ魔性の本質は何も変わってない。それだけに、より巧妙な手口で、弾圧をすることになるぞ」と。
 昭和32年の「大阪事件」では、私も、事実無根の選挙違反の容疑で不当に逮捕され、2週間にわたって拘束された。
 権力の狙いは、戸田先生にあった。
 取り調べの検事は、"おまえが罪を認めなければ、戸田会長を逮捕するぞ"と陰険な恫喝を浴びせてきた。
 先生のお体は衰弱している。逮捕されれば命にかかわる。絶対に逮捕など、させてなるものかーー。
 恩師をお守りするために、私は、ひとたびは検事の言い分を認め、あとは裁判で無実を証明しようと決めた。
 そして、4年半後、大阪で勝利の無罪判決を勝ち取り、すでに亡くなられていた恩師に、ご報告申し上げたのである。
 歴史を忘れるな
 一、第1次宗門事件では、第3代会長を辞任した。(昭和54年4月24日)
 さらにまた、国家権力による宗教弾圧の嵐も吹き荒れた。
 多くの同志が心を痛め、私の正義を叫び、勝利を祈ってくださった。
 しかし、かつての最高幹部のなかには、嵐の時に戦わないどころか、敵と結託して、私を陥れようとした反逆者もいた。
 「怖いのは内部だよ」と言われた恩師の言葉を思った。
 この歴史の教訓を、青年部は、断じて忘れてはならない。繰り返してはならない。
 "大難と戦う師匠"を守るのが弟子である。
 一、格好主義は、仏法の敵だ。
 戦っている格好をする幹部ーーそれが一番ずるい。
 仏法は「不惜身命」である。死にものぐるいである。
 創価学会には、「上」も「下」もない。
 広布に戦う人が偉い。同志を守る人が偉いーーこれが出発であり、これが結論である。
 学会を弾圧した者の末路を見よ
 一、御聖訓にいわく。
 「法華怪には、(法華経の)行者に敵対する者は、阿鼻地獄に堕ちる人であると定めている」(御書1389㌻、通解)と。
 「法華経の行者」とは、だれなのか。
 総じては、日蓮大聖人の門下として、人々の幸福のため、苦難に耐え、勇敢に妙法を弘めゆく学会員である。
 我ら創価の師弟である。
 さらに、御書を拝したい。
 「仏の御使いとして、南無妙法蓮華経を流布しようとする人を、日本国の王臣ならびに万民などが、あるいは罵ったり、あるいは悪口を言ったり、あるいは流罪にし、あるいは打ち叩く。さらには、その弟子や眷属などを種々の難にあわせる。そのような人々が、どうして安穏でいられようか」(同265㌻、通解)
 学会を甘く見てはいけない。同志を甘く見てはいけない。
 学会は広宣流布の団体である。大切な仏の団体である。
 学会に弓を引くことは、大聖人に師敵対することに等しいのだ。
 さらに、御聖訓にいわく。
 「始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」(同1190㌻)、「彼の一門皆ほろ(亡)ぶるを各御覧あるべし」(同1413㌻)と。
 大聖人は、法華経の行者を迫害した者の末路の厳しさを明確に説いておられる。
 そのままの現罰・仏罰が厳然とあらわれていることは、皆さんがご存じの通りである。
 再びの登攀を!
 一、戸田先生は、権力をもって民衆をいじめる者には厳しかった。
 「極悪を世に知らしめて、責めて、責めて、責め抜け! 最後まで!」と。
 青年は強気でいけ!
 そして断じて勝て!
 青年の勇気が新たな勝利の道を開くのである。
 8月は青年の月だ。
 青年の戦う魂が燃え上がる月だ。
 わが青年部よ、私とともに、同志とともに、新たなる民衆勝利の峰へ、再びの登攀を開始しよう!
 勇敢に!
 快活に!
 青年らしく!
 青年部の諸君、よろしく頼む!(大拍手)



【9】

2007.8.9 全国最高協議会での先生のスピーチ

(スピーチより抜粋)
昭和54年5月5日、快晴。神奈川文化会館で揮毫
われ一人正義の旗持つ也
戸田先生の遺言 『第3代は一生涯、会長として指揮を執れ』
 「最も尊敬する人物」の一人に
 一、きょうは責任ある最高幹部の集いである。
28年前、私が第3代会長を辞任した当時の話をしたい。
 昭和54年(1979年)の4月24日、火曜日。私は、第3代会長の辞任を新宿文化会館で発表した。
 全国から集った代表幹部からは、「どうして先生が辞めなければいけないんですか!」「先生が辞められることは、納得できません!」との声があがった。
 その後、私は聖教新聞社のロビーで記者会見を行った。
 歩いて自宅へ戻ると、妻が、いつもと変わらず、微笑みながら、「ご苦労さまでした」と迎えてくれた。
 5月3日、創価大学で、会長辞任の本部総会を終えた後、私は、そのまま神奈川文化会館へ向かった。
 学会本部には、私の指揮を執るべき席はなかったからである。
 時として、小さな管理者室で執務することもあった。それほど冷たい執行部だった。
 この5月3日付の「読売新聞」の朝刊に、日米の国民の意識調査の結果が掲載された。
 そこには、日本人が「過去、項在を問わず最も尊敬する」日本人の名前が、上位20人まで挙げられており、第6位として私の名前が出ていると、ある幹部が教えてくれた。
 吉田茂、野口英世、二宮尊徳、福沢諭吉、そして昭和天皇と続き、その次が私であった。
 会長を辞任して迎えた5月3日の記事に、私は不思議な感慨を覚えた。
 無名の庶民の代表として、私の名前が出たことを、同志がどれほど喜んでくれたか。
 一方、その意義を感じられず、嫉妬の眼で見つめる愚劣な連中の心は、本当に浅ましかった。
 世界広布へ!
 一、5月3日から6日までの4日間、私は、神奈川文化会館で指揮を執った。
 この折、神奈川文化会館の前の山下公園通りでは、横浜港の開港120周年を祝う「みなと祭」のパレードが盛大に繰り広げられていた。
 妻は「素晴らしい行事です。まるで、あなたを歓迎してくれたようですね」と言った。
 この間、幾千、幾万の学会員が、私を求めて、連日、神奈川文化会館へ来られた。
 私のいる窓に向かって、山下公園から手を振る同志に、私も、妻と共に手を振って応えた。
 広々と海が見える神奈川文化会館で、私は全世界の広宣流布の構想を練り、人知れず、手を打っていった。
 この時の戦いが因となって、当時、90カ国ほどであったSGI(創価学会インタナショナル)は今日、190カ国・地域への拡大という大発展を遂げたのである。
 5月5日、快晴。この日、私は「正義」の揮毫をしたためた。脇書には、「われ一人正義の旗持つ也」と記した。
 陰で戦った人を決して忘れない
 一、当時、神奈川文化会館で、陰で戦ってくれた方々のことは、絶対に忘れない。
 代表の方々の名を挙げれば、婦人部では、大曽根洋江さん、岡本雅子さん、大場由美子さん、川井三枝子さん、さらに平塚貞子さんをはじめとする皆さんである。
 運転手の小早川欣也君も、変わらず、そしてひたむきに、奮闘してくれた。彼は平凡な人間だが、根性は立派だった。
 私の運転をしている間、ただの一度も、病気をしなかった。
 役員も、大石秀司君を中心に、本当に真剣に護ってくれた。
 学会の常勝の道
 一、初代・牧口常三郎先生は、一生涯、会長であられた。
 第2代・戸田城聖先生も、一生涯、会長であられた。
 戸田先生は、遺言された。
 「第3代は、一生涯、会長として指揮を執れ!
 第3代が、一生涯、会長として指揮を執ることこそが、創価学会の常勝の道である」
 第3代会長を、皆で一生涯、護れば、必ず広宣流布できるーーこれは、執行部が、皆、戸田先生から厳命された遺誡であった。
 しかし、名聞名利に溺れ、嫉妬に狂い、権力の魔性に屈した人間たちが、第3代の私を追い落とし、迫害し、学会を乗っ取ろうとした。
 その陰には、提婆達多のように卑劣な謀略の輩に誑かされた最高首脳がいたことは、よくご存じの通りだ。



【10】

2008.12.2 各部代表協議会での先生のスピーチ

(スピーチより抜粋)
憤激の手紙
一、先日、昭和54年(1979年)に私が第3代会長を辞任した際、全国の同志から、数多くの怒りと悲しみの声が寄せられたことを紹介した。
 "大功労者の池田先生が、なぜ辞めなければならないのか。学会の首脳は何をやっていたのか"ーこうした悲憤の声が、手紙や電話で寄せられた。その数は、直後だけでも、およそ8200から8300になる。
 この時に、同志の皆様が寄せてくださったお手紙は、すべて大切に保管してある。
 今、読み返してみても、涙なしでは読めないほどの憤激の手紙である。ありがたい、誠実と真心の光る手紙である。
 〈ある婦人部の友は、名誉会長への手紙に次のように綴っていた。ーー池田先生、なぜお辞めにならなければいけないのですか。そんなことがあっていいのでしょうか。私は嫌です。私の師匠は、池田先生しかおりません。
 私の家は、元は悲惨を絵に描いたような生活でした。それが今では、願いのすべてが叶い、生まれてきた喜びを味わえる境涯になりました。
 これは、全部、全部、先生がいらっしゃればこそです。
 私たちのような庶民の幸せを、だれが祈ってくれたでしょう。先生以外には、いらっしゃいませんでした。
 先生、どうか再び指揮を執ってください。その日が来ることを、私は祈り続けてまいりますー。
 また、ある男子部の友は、手紙に次のように記した。
 ーー先生の会長辞任の報に接し、万感陶に迫るものがあります。僕は負けません。しかし、自分の胸中の寂しさは、どうしようもありません。
 もう先生に、お会いできないんでしょうか。これからは、先生の御書講義や、ご指導は受けられないんでしょうか。
 会長である池田先生も、会長でない池田先生も、私たちにとっては池田先生です。
 先生、僕は、先生の弟子です。師子の子です。成長します。力をつけます。この苦衷は、僕の未来へたたきつけますー。
  また、関西の同志からは次のような様子が伝えられた。
 ーー池田先生の会長ご勇退を聞いた時、関西は皆、悲しみと悔しさ、落胆と怒りで、目の前が真っ暗になりました。
 ご勇退の直後の大ブロック(現在の地区)の会合では、いつもは明るい大ブロック担当員(現・地区婦人部長)が、「なんで先生が、辞めなあかんのや! 皆のために戦ってこられた先生が、なんで会長を辞めなあかんのや」と号泣しました。
 皆、堰を切ったように泣き始めました。
 普段は和気あいあいだった会合が、一変してしまいました。この悔しさは、絶対に忘れませんーー
 また、識者の方からも、多くの丁重なお手紙を頂戴した。私の世界を舞台にした平和行動、人類を結ぶ対話に対する期待が、社会に大きく高まっている時だった。
 多くの方が、私の辞任を惜しんでくださった。
 あの時、私の会長辞任の報を聞き、すぐに東京に駆けつけてくれた関西の同志もいた。
 また、ある九州の友は、「終生かけて師匠の仇を討ちます」と憤激の決意を手紙に認めて送ってくれた。
 "先生、私たちのために、どうか辞めないでください!""私が先生をお護りします!"ーーそう叫んでくださった尊き庶民が大勢いた。
 私は、こうした真実の同志の姿を決して忘れない。皆様の幸福と勝利を祈り、ずっとお題目を送ってきた。
 これからも、永遠に祈り続けていくつもりである。
 報恩の道を
 一、反対に、大幹部の中には、大恩ある学会を裏切り、かえって仇をなす人間が出た。私が苦しむのを見て、陰で喜ぶ人間もいた。
 あまりにも卑劣な、恩知らずの姿であった。
 御書には、「畜生すら、このように恩を知り、恩に報いる。まして人間が恩を知り、恩に報いないでよいはずがあろうか」(293㌻、通解)と仰せである。
 仏法は、恩の大切さを教えている。報恩に生き抜いてこそ、真の仏法者である。
 不知恩の輩を戒めなければ、信心の世界は破壊されてしまうだろう。
 大難を越えて
 一、いざという時に、人間の本質は明らかになる。
 戸田先生は語っておられた。
 「難が起これば、人間の真価がわかる。一人一人の信心の真偽が明らかになる。そして、学会を利用しようとしていた者や、臆病者は去っていく」
 戦時中、学会が権力の弾圧を受けた時、最高幹部たちは次々と退転してしまった。
 戸田先生は、獄中から同志に宛てた手紙の中で、草創からの大幹部でありながら退転した人間を指し、次のように戒められた。
 "幹部諸氏に、あの男の二の舞になるなと注意せよ"
 戦後、戸田先生の事業が破綻した時もそうだった。
 それまで「戸田先生、戸田先生」と言っていた人間たちが、手のひらを返したように先
生を罵倒し、去っていった。その中で私は、ただ一人の真実の弟子として、師匠のために、
すべてに勝ち抜いてきた。
 先生の多額の負債。その一切を返済していったのは私である。
 先生が第2代会長になられた後も、遅々として進まない折伏。
 「大作、なんとかせよ!」。その先生の一言を受けて、私は、大折伏戦の突破口を開いた。
「不可能」と言われた選挙の戦いも勝った。師のために、卑劣な迫害にも耐えた。
 第3代に就任してからも、襲いかかる弾圧を乗り越えてきた。
   勇気と智慧で
 一、先生は、こうも述べておられた。
 「この悪辣な時代に、本格的に広宣流布をやろうというのだ。それは、容易なことではない。広宣流布は、よほどの信心と勇気と智慧がなければ、とうてい遂行できない大偉業なのだ」
 その通りだ。
 「それをできるのは、大作しかいない」。先生は、そう言ってくださった。
 私は第3代会長を辞任した。辞任せざるをえなかった。
 しかし、このままでは学会は滅茶苦茶にされてしまう。苦しむ同志の姿は、あまりにも、かわいそうだった。
 私は陰の立場で学会を護った。そして、同志のため、戸田先生のため、師匠への誓いを果たすために、もう一度、学会の指揮を執って、ここまで戦ってきたのだ。
 その間、どれほどの陰湿な嫉妬や攻撃があったか。どれほどの苦闘だったか。苦悩があったか。
 私はあらゆる犠牲を払って、広宣流布のため、学会の同志のために力を尽くしてきた。
 皆が勝って、愉快にこの人生を飾れるようにーーそう祈りに祈って、戦い抜いてきた。
 先生の偉大さを声に出して語り、叫びに叫び、世界に宣揚してきた。
 これが創価の歴史である。美しい戦いだった。杜絶な闘争だった。
 「先生!」「先生!」と叫んで、不二の魂で広布に戦った分だけ、諸天善神が一切を護ってくれたと、強く確信している。
 これは私自身のことでもあるが、本当のことを言わなければ、何が真実か、わからなくなってしまう。
 未来のために、ありのままの事実を語っておきたいのだ。
 今、一騎当千の弟子がいるかどうか。本物の新たな「池田大作」が出ることを、私は祈り、待っている。
 「天も弛も知っている」
 一、大難と戦う大聖人をお護りした弟子の一人に、四条金吾がいる。大聖人は金吾を、こう讃えておられる。
 「日蓮を助けようと志す人々が少々いるとはいっても、あるいは志が薄い。あるいは志が厚くても、行動がそれに伴わない。
 さまざまな人がおられるなかに、あなた(四条金吾)は、日蓮を本当に助けようとする一人である。
 志が人よりすぐれておられるうえ、日蓮がわずかの身命を支えることができているのも、また、あなたのおかげである。このことは、天も必ず知っておられるし、地もご存じあろう」(御書1149㌻、通解)
 このとき、金吾は、信心ゆえに讒言され、領地替えを命じられるなど、苦しい立場にあ
った。
 今で言えば、不景気で仕事がなかったり、社会的信用を失ったり、リストラにあう苦しみにも通じよう。
 その中にあって、金吾は、大聖人にお仕えし抜いた。
 佐渡流罪中の大聖人のもとにも、荒波を越えて訪ねていった。
 その弟子の導き志を大聖人は心から讃えていかれたのである。
 仏法の師弟は、厳粛である。気取りや見栄は通用しない。
 大事なのは真心である。信念である。誠実である。行動である。
 厳しき鍛錬
 一、あるとき、遺言のごとく戸田先生は言われた。
 「本物は大作だけだ。大作がいて、私は本当に幸せだ」
 「大勢の人間がいるが、信用できるのは、大作、一人だ」
 先生は、私をいつも側に置いて、万般の学問を、個人教授してくださった。
 師は言った。
 「お前を夜学に行かせられなかったのは、おれの責任だ。おれが一生をかけて、全魂を込めて、学問を打ち込んであげるからな」
 この「戸田大学」での鍛錬があったからこそ、今の私がある。
 これまで私がお受けした世界の大学・学術機関からの数多くの名誉学術称号も、すべては「戸田大学」での薫陶の賜にほかならない。〈現在、名誉学術称号は「246」を数える〉
 また、「11・18」を中心に今、ブラジルをはじめ各国から顕彰や祝賀の声が寄せられている。どれほど、牧口先生、戸田先生が喜んでおられるか。感謝を込めて皆様にご報告申し上げたい(大拍手)。
 一、牧口先生と戸田先生は、すごい師弟であった。
 軍国主義と戦って牧口先生とともに牢獄に入った戸田先生は、「あなたの慈悲の広大無辺
は、わたくしを牢獄まで連れていってくださいました」と牧口先生に感謝されたのである。
 この一言に私は感動した。それと同じ心で私もまた戸田先生にお仕えしようと決めた。
師に捧げた、わが人生に一つの後悔もない。
 断じて屈するな
 一、師とともに命に及ぶ大難を戦った弟子・四条金吾。
 大聖人は、金吾に次のように仰せになられた。
 「なにはともあれ、あなたの未来世の幸福境涯は間違いない。
 なによりも、文永8年のあの御勘気の時、相模の国の竜の口で私の頸が切られようとした時にも、あなたは馬のロにとりついて、はだしで供をし、泣き悲しまれた。
 そして、私が頸を切られることが現実となってしまったならば、自分も腹を切ろうとの様子であったことを、いつの世にも思い忘れることができようか」(同1193㌻、通解)
 いかなる弾圧にも、断じて屈しない。
 いかなる迫害にも、断じて揺るがない。
 この大聖人直結の強き信心の実践こそ、学会の根本だ。三代の師弟の魂だ。これがなくなったら学会は衰亡である。
 本当の正義とは、師弟不二である。
 それを明快に言い切っておきたい。
 "人まかせ"は仏法ではない
 一、皆、元気に勝とう!
 今年も元気で!
 来年も、もっと元気に勝とう!
 私たちは永遠に同志である。
 健康で、祈って祈って祈り抜いて、苦労も多いけれども、一番楽しい人生を、勝ち飾っていこう!
 仏法は勝負だ。勝つことだ。幸福になるのだ。
 ただ人まかせで、状況に流され、運命に甘んじて、自ら人生を切り開いていく気迫も、行動もない。それは仏法とはいえない。
 勝つことを祈るのである。これが勝負の鉄則である。
 皆、お元気で!
 いいお正月を!
 また来年、一緒にやろう。
 皆に喜びを贈る民衆愛の指導者であってほしい。
 皆の心がホッとして、楽になる。気持ちが豊かになる。こういう方向にもっていかないといけない。また会合では、最後まで見送ってあげるのだ。
 一、戸田先生は叫ばれた。
 「学会員は私の大切な命だ!」「広宣流布に走りゆく同志のために、指導者は絶対に労を惜しむな!」
 これが学会の創立の心である。これを大事にすれば発展する。
 同志のために労苦をいとわない。その真面目なリーダーが最後は勝つ。その人の名は永遠に歴史に刻まれる。
 私と一緒に戦おう!
 私は、皆を公平に見ている。一生懸命やった人を讃えてあげたいのだ。
 毎朝毎晩、私は妻とともに、会員の皆さんの幸福、無事故、福運、勝利を真剣に祈っている。祈って、祈って、半世紀である。
 これが本当の創価学会の指導者である。
 ともどもに最高の人生の総仕上げをしよう。お元気で。長時間ありがとう!(大拍手)
 



【11】

2009.4.14 全国代表協議会での先生のスピーチ

(スピーチより抜粋)
今から30年前の昭和54年(1979年)5月3日――。
私は、八王子の創価大学で〝会長辞任の本部総会〟を終えた後、学会本部へは戻らずに、そのまま神奈川文化会館へと向かった。
当時、学会は隆々たる発展を遂げていた。いわば〝絶頂期〟である、これからが本当の総仕上げという大事な時期であった。
その時に、非道な迫害の嵐の中で、第3代会長を辞めざるを得なくなったのである。
〈この日、読売新聞の朝刊に、日米の国民の意識調査の結杲が掲載されていた。そこには、日本人が「最も尊敬する」日本人の名前が載っており、第6位に池田名誉会長の名前が挙げられていた。
1位から順に吉田茂。野口英世、二宮尊徳、福沢諭吉、昭和天皇、その次が名誉会長であった〉
私が第3代会長を辞任した背景には、学会の発展を妬み、私を陥れんとする宗門や反逆者たちの醜い謀略があった。
ゲーテは「多くのひとは、私欲で落伍をする」(ビーダーマン編・国松孝二訳『ゲーテ対話録Ⅱ』)と述べたが、卑劣な反逆者の姿は、まさにこの言葉通りであった。
本気になって学会のため、正義のために戦う人間はいないのか。真実の味方はいないのか――。
あまりにも情けない無残な姿であった。本当に、人間の心ほど恐ろしいものはない。
思えば、その少し前の4月24日、私が会長辞任を発表し、信濃町の自宅に戻ると、妻がいつもと変わらぬ様子で迎えてくれた。
「本当にご苦労さまでした。健康でよかったです。
これでまた、大勢、同志に会えますね」
そう言って、微笑んでくれた。今でも忘れ得ぬ一コマである。
真実の歴史を
一、私は、会長として指揮を執ることはできなくなった。
しかし私は、牧口先生、そして戸田先生が命を懸けてつくられた学会だけは絶対に守らねばならないと、深く決意をしていた。私とともに戦ってくださった、多くの真実の同志を守り抜こうと心に決めていた。
少しでも長生きをして、もう一度、本当の学会をつくり、未来に残すのだ。その思いで立ち上がり、ここまで頑張ってきた。
あの会長辞任から30年。私が陰で、友のため、世界の広宣流布のために、どれほど心を砕き、手を尽くしてきたか。学会をここまで発展させるのに、どれほど壮絶な戦いをしてきたか。
皆さんには、真実の歴史を知っておいてもらいたいのだ。
私の心を知り、私と同じ心で、戦ってもらいたいのだ。
世界が舞台だ
 一、八王子での本部総会の後、なぜ、私が神奈川へ向かったのか。
 神奈川には、世界につながる海があるからだ。もう一度、世界を舞台に戦うのだ !――これが私の決心であった。神奈川の友も、変わらぬ心で迎えてくれた。
 神奈川文化会館に着いた5月3日の夜、私は筆を執った。その時の揮毫を30年を経て、ここで披露したい。
 それは「共戦」という二字である。脇書には次のように記した。
 「五十四年
    五月三日夜
 生涯にわたり
  われ広布を
  不動の心にて
     決意あり
 真実の同志あるを
    信じつつ
       合掌」
 真実の同志――それとは、私と心一つに、広宣流布へ戦う皆様方である。
 これまで、どれほど多くの忘恩の輩が出たことか。
私は戸田先生を守りに守った。先生亡き後は、先生のご家族にも最大に心を尽くした。一切を犠牲にして、妻とともに弟子の道を貫いた。
師匠が罵られ、中傷されても何の反論もできない。戦えない。そんな情けない弟子であってはならない。
その思いで生き抜いてきた。
 未来に生きる皆さんは、私との「共戦」の人生を歩み抜いてほしい。頼むよ!〈参加者から「ハイ!」との力強い返事〉